Due teste! 二つ頭って? (再掲2006-05-24の記事) [1400年代 Quattrocento]
【フレスコ画の世界】
第1回の「ロケット小僧」ではなくて本当は「哀悼の場面」。
ジョットの偉大さは全く伝わっていませんね。深く反省。
(※ この記事は旧カテゴリー【フレスコ画の世界】から新カテゴリー【1400年代 / Quattrocento】に移動しました)
2012年以来、開店休業中のブログ「美術史ノート」ですが、
そろそろ再開したいと思っています。
本格的再開(?)の準備運動を兼ねて、イタリア滞在中に書いた記事を整理して再掲しています。
聖ペテロ伝「テオフィルスの息子の蘇生と法座の聖ペテロ」の画面
MASACCIO (1401-1428), e Filippino Lippi (1457-1504)
1426-82, Cappella Brancacci, Santa Maria del Carmine
では、ここで問題。間違い探しです。
この絵にはどこか奇妙なところがあります。
それはどこ?
正解は「5人分の頭があるのに足は4人分しかない」です。
でもなぜ?
この問題を取り上げた文献はあまり無いようです・・・いや、あるかも知れないけれど僕はまだ見つけられずにいます。
そこでこの疑問を、フィレンツェ大の美術史の先生にぶつけてみました。講義を終えたばかりの彼女は「それは良い質問ね」とは言ってくれなかったし、どちらかと言うとちょっと面倒くさそうに、それでもこう答えてくれました。“Due teste!(二つの頭)”
二つ頭って?
「それはルネサンスの知識階層の間、特にメディチ家のサロンで流行していた『ネオプラトニズム (Neoplatonism)』の思想、観念の中の美的理想世界と、現実世界の結合を象徴するもの。2つの世界に生きる事を、2つの頭をもつひとりの人間の姿で象徴した」んだって。
ネオプラトニズム の思想から生まれた美・芸術への愛「プラトニック・ラブ(=プラトン的な愛)」という言葉は今も生きていますね。
でもこの説明で「フムフムなるほど」って納得できます?
僕は全然理解できませんでした。
実はこの壁画、作者は2人います。
頭の部分を描いたのはマザッチョ、胴体から下はフィリッピーノ・リッピ。
どうしてそんな事になったのでしょう。
この壁画には特別な成り立ちがあります。
この壁画があるのはサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂です。
大きな教会にはいくつかの礼拝堂がありますが、それらは裕福な人々が寄進したものです。
これはフェリーチェ・ブランカッチがスポンサーとなった礼拝堂。
壁画のテーマは聖ペテロ伝です。
始めに注文を受けたのはマゾリーノMasolino da Panicale ( 1383-1447)。
彼は40代の働き盛り、20代の若いマザッチョを誘って共同製作を開始します。
向って右の壁をマゾリーノ、左の壁をマザッチョという分担でした。
しかし制作をリードしたのはマザッチョ。
右側の壁からは、マザッチョが創始した新しい絵画様式(スタイル)を20歳近く年上のマゾリーノが必死に、しかし喜びとともに吸収していく様子が伝わってきます。
ところが製作開始から2年にみたないある時、この壁画制作は中断します。
マゾリーノはハンガリーに仕事に赴き、その後ローマで新しい仕事の注文を得て、マザッチョを呼び寄せます。
しかしマザッチョはローマで客死してしまうのです。
27歳の夭折でした。
その後マゾリーノもブランカッチ礼拝堂に戻ってくる事はありませんでした。
壁画は50年以上、未完成のまま放置されてしまいます。
しかし、その未完の壁画は、フィレンツェの若い画家達の熱い注目を集める事になります。
(未完成のフレスコ画はどんな状態だったのか。それを理解するためにはフレスコ画の技法について見ていく必要があります。それについて、かいつまんで書いてみます。といっても長くなるので文末にまとめます※)
マザッチョの革命的な表現=親友の建築家ブルネレスキに学んだ合理的遠近法空間、彫塑的な量感、そして迫真的な写実への強い意志=が新しい時代、つまりルネサンスの到来を告げるものだったからです。
彼らは競うように壁画をデッサンします。
その中には若きミケランジェロらも含まれていました。
やがてこの壁画は「ルネサンスの学校」と呼ばれるようになります。
そのころ、この教会を遊び場にしていた少年がいました。彼の名はフィリッピーノ(ちびフィリッポの意味)。父は偉大な画家、フラ・フィリッポ・リッピです。
フラというのは僧の敬称、つまりフラ・フィリッポ・リッピは画僧だったのですが、絵の才能とは裏腹に、フィリッポ先生、とんでもない破戒僧でした。
若い修道女をモデルに聖母像を描くのですが、その修道女とできちゃった駆け落ちをやらかすのです。
当然、破門だけでは足りない重罪。
しかし彼の才能を惜しんだ大メディチ家がとりなして無事所帯をもつことになります。
そして、できちゃったのがちびフィリッポ少年というわけです。
彼は長じて画家となり、中断から50数年後の1482年この壁画を完成させる事になります。
難しい仕事だったに違いありません。
この左壁下段で、マザッチョの作風に忠実に、違和感なく完成させた研究心と技量は称賛に値します。
彼自身の創意と新しい時代の傾向を反映させているのは右壁下段です。
その部分の壁は白紙の状態でしたから、彼の独自の発想で描く事ができたのです。
(次回以降に詳しくみていきたいと思います)
長くなりましたが、ここで始めの疑問に戻ります。
なぜ「5人分の頭があるのに足は4人分しかない」のか?
フィレンツェ大学美術史の先生のお説では「マザッチョが5人分の頭部を描いてから50数年後、フィリッピーノが、あえて1人分の身体を描かないことによって、プラトンの理想的人間像を表現した」ということになります。
「おちょこチョイのフィリッピーノが、うっかり一人分の足を描き忘れたから」と僕は思うのだけど...
左壁。左上端は有名な「楽園から追放されるアダムとイブ」
この壁画については語るべき事が多いので何回か続けます。
次回以降でマザッチョ、マゾリーノ、そしてフィリッピーノ・リッピ、それぞれの時代と作風の違いについてみていきます。
P.zza del Carmine Tel. 055/ 2382195
平日: 10-17 休日: 13-17 火曜休館
インフォメーションと予約( 9.00-13と 14.00-19.00)
Tel. 055/ 276.8224 Tel. 055/ 276.8558 写真/ビデオ撮影可(フラッシュ/照明不可)
Chiesa di Santa Maria del Carmine
ミロのヴィーナスもツタンカーメンの黄金の仮面もあのモナリザさえ、上野にやって来ました。
でもフレスコ画だけは無理。
修復などのため壁から剥がしてパネルに張ったものは何度か来ていますが、それが本物の生きているフレスコ画と言えるかは微妙なところ。
フレスコ画は本来それが描かれた場所で観て初めて理解できることがたくさんあります。
漆喰壁が厳密な平面ではなくゆったりと波うっていたり、下絵を転写した跡が残っていたり、実際の小窓から差し込む光線と画面上の光の方向が一致していたり…。
数100年前、同じ場所にたって描いた画家の息吹さえ伝わってくるようです。
ウフィッツィ美術館の長蛇の列に挫けてしまったら、アルノ河を渡ってカルミネ教会まで足を延ばしませんか?
ここにはウフィッツィの全作品にも負けない魅力的な壁画があります。
入場制限がありますが15分くらい待てば入れる事が多いです。
小人数で静かに鑑賞できるのも嬉しいです。
サンタ・マリア・デル・カルミネ教会全景 ブランカッチ礼拝堂へは右の入り口から。
おまけ
教会裏手の路地を散歩していると
フラ・フィリッポ・リッピの生家を発見
この入り口の右が生家。奥に見えるのはカルミネ教会の一部。
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